《羽黒山今昔物語》

門前町手向に入る手前にある大鳥居
昭和初期頃まで大鳥居から先は鬱蒼と松の木が生い茂っておりました、現在、その当時の面影はありませんが、今でもご年配の世代の方達はこの周辺の地区(手向10区)を「松原(まつわら)」という旧名で呼んでおります。
完成当時の大鳥居の両側にある灯籠も初々しく大鳥居の真下に当時では珍しい自動車とドライバーが写っているところからこの写真は記念写真なのでしょう。また、今では有名な大鳥居の両側の桜の木も当時は無かった事に気が付きます。

今では自動車や大型の貸切バスがひっきりなしに通るこの大鳥居付近の道路も当時はさぞや静かであったのでしょう。自動車の横にある建物は今で云うところのコンビニエンスストアのようなお店であったそうで戦前まで営業されていたそうです。

ダットサン・フェートン(1936年型)
長らくこの自動車の車種が不明でありましたが、平成19年6月16日(土)に東京・葛飾講中の方のご協力に因り、遂に判明しました!。この自動車の車種は「ダットサン・フェートン(1936年型)」であるそうです。
随神門
羽黒山の表参道である2,446段(全長約1.4q)の入り口にある随神門の写真、細かい点を探せば色々と相違点が目に付きますが、面白いのは門の手前にある松の木が昔は二本あったのだという事が分かります、また、残った右側の松の木の幹の太さからも歳月の流れが感じられます。

三神合祭殿
羽黒山頂にある出羽神社の三神合祭殿の写真です、『出羽神社?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは正式な呼称で通称は“羽黒山神社”と呼ばれております。
見ての通り、昔は正面の池に優美な橋が架けられておりました、しかしながらこの橋は諸般の事情で大正末期に撤収され今では往時の面影を偲ぶ事は出来ませんが、この橋を撤収する際に池から多数の古い鏡が出土されました、以来、この池の名を従来から呼んでいた「御手洗池(みたらいいけ)」から「鏡池(かがみいけ)」と呼ぶようになりました。

古鏡(こきょう)
平安時代〜江戸時代の中期頃までに栄えた信仰でこの鏡に願いを込めて池に放り投げて願(がん)をかけたと謂われております。
現在、数百面が出土されており、その内の190面が国の重要文化財に指定されております、尚、羽黒山頂に「羽黒山歴史博物館」があり、そこにも一部が展示されておりますのでご興味を抱かれた方はお越しの際にお立ち寄りの上、ご覧に為って下さい。


月山頂上
標高約2,000bの月山頂上、今と昔の相違点は写真から判断するに少ないのですが、ただひとつだけ、右側の写真の中央に写っている当時の月山頂上小屋の質素な佇まいに驚きます。
現代では八合目まで自動車やトラックで物資を運び、そこからヘリコプターを用いて僅か3分ほどで月山の頂上まで荷物を運ぶそうですが、当時は全てを人力や馬を使って一合目から運搬したわけであり、この写真を見る度に当時の人達の労苦が偲ばれます。
右の写真は庄内空港を離陸後に機内から撮影した月山の写真です、空路や高度の関係で「庄内-東京便」ではこれ以上に月山の近くを飛行することは滅多にありませんが、意外にも「秋田-東京便」では月山の真上を飛行する場合が多々あるそうです、どちらの便にしても晴れた日にご搭乗の際は機内の窓から目を凝らして月山の雄姿をご覧に為ってみて下さい。


湯殿山ホテル
湯殿山神社への有料道路入り口の手前にある近代的な宿泊施設です、現代では神社の手前まで車で行けるように為りましたが、この写真が撮られた昭和初期の頃まではこの周辺までしか道路は開通しておらず、当時、参拝者はこの先を約1時間30分ほどかけて歩いて湯殿山を参拝したそうです。

左の写真は湯殿山ホテルの売店の手前にある庄内交通のバス停の写真です、首都圏からJRで宮下坊にお越しになって月山に登り、翌日に湯殿山に下った際にはこのバス停から「112高速バス」に乗って山形駅を目指す事になりますが、全ての112高速バスはここに停車をしませんのでご注意下さい。
下記の三枚の写真は売店内部の写真です、お近くをお通りの際は立ち寄ってみては如何でしょうか。


今回もこのページの構成にあたり、鶴岡市在住で庄内民俗学会会員の渡辺幸任さんより貴重な昔の写真の提供を受けました、この場を借りて深謝申し上げます、尚、渡辺さんのプロフィールについては当方の「精進料理のページ」「月山筍」の箇所をご覧下さい。



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